サルムソンってなんぞや?

 という質問が某所から上がったのでお答えする。といっても断片的なフランス語や英語の情報をヲレの貧弱な脳で訳してるので間違いはあると思うが容赦して欲しい。

  • 歴史:1890年、EmileSalmsonがパリでポンプの工場を開いたのがルーツ。

やがて20世紀が訪れるのを機にさらなるポンプの改良と製造、そして飛行機用星型エンジンを開発するためにCantonとUnneという2名の技師を呼んだ。EmileSalmsonはすでに来るべき戦争(第一次大戦)に備え、Villeurbanne郊外にエンジンをはじめとする飛行機工場と飛行場を建設していた。

  • そこで出来たのが、”2A2”型偵察機。これは後に岐阜は各務原川崎重工ライセンス生産されることになり、陸軍でも制式採用されるが、これは後述する。
  • さて、この”2A2”型偵察機。軍用では偵察とい任務についていたが、民間においては初の航空郵便輸送に使用された。
  • 間もなくEmileSalmsonが死を迎えると同時に、株主たちは安定した利益の見込めるポンプ事業をSalmson一族から切り離した。後に熱水循環システムでは世界のトップとなる企業になった。そして、いまも現存している。
  • さて、残されたSalmson一族は息子の指導のもと自動車製造へと方針転換することとなる。Villeurbanne工場を自動車製造のために転換。飛行場はテストコースとなるのである。
  • まもなくサーキットで結果を出すとやっかみ半分で「SmallEmile」(多分、親の遺産でカネ掛けりゃあ勝てるわなあ!って意味だろうと思う。)と呼ばれる事となる。
  • 当時でも6気筒エンジン搭載車は沢山あったが、顧客の心を掴んで離さなかったのは、洗練されたデザインのエンブレムとそれに恥じない性能の高さ、そしてデザインの優美さだった。なにしろその当時はあのロールス・ロイスの有力なコンペティターのひとつだったのだから。
  • その性能の源の一つがDOHCエンジン、いまではごく当たり前になった感のあるエンジンであるが、レーサーから市販車までもれなくDOHCエンジンを搭載したのだ。それらは”Le mot magique 2 ACT”、”魔法の2本”と呼ばれた。
  • 第二次大戦後、禁止税的高課税等、高級車に対する風当たりは強くなり、いくつかの優美な少量生産モデルを生産したが、1957年自動車会社としての「サルムソン」は社会からフェードアウトしていった。

以上だ。


 

飛行機生産のパイオニアとして
大正7年(1918年)8月、当社はフランスのサルムソン社とサルムソン2A-2形偵察機および同AZ-9形発動機などに関する技術提携を行った。
そして、大正8年4月に建設した自動車・飛行機製作工場において、生産の第一歩を踏み出したのである。

大正8年7月に陸軍からサルムソン2A-2形飛行機2機の製作要請を受けた当社は、機体組立工場など計1,530坪(約5,050平方メートル)を増設、 先にサルムソン社から輸入した飛行機3機の組み立てを始めるとともに、翌9年の秋には発動機の製作にも着手した。
しかし、当時、わが国の航空機製作はまだ黎明期にあり、技術用語の翻訳、図面 の解釈、資材の調達など、 関係技術者の苦労は想像を絶するものがあったという。
このため、松方社長は竹崎友吉技師を伴い、大正10年から12年にかけて再び欧米各国の航空機工業界を視察し、 技術習得に努めて製造技術の向上を図った。 また、飛行機工場の諸施設の拡充を行う一方、10年の秋には岐阜県稲葉郡蘇原村三柿野に土地6万575坪(19万9,900平方メートル)を取得し、 飛行機組立工場、飛行機格納庫と試験飛行のための設備を整えたのである。
これが後の岐阜工場(昭和14年改称)となった。

大正11年には陸軍機50機の製作命令があり、当社の飛行機製作はいよいよ本格化していった。 まず、自動車科、飛行機科の2科を兵庫工場から分離、本社に直属する飛行機部を新設した。
そして、飛行機部のもとに昭和9年(1934年)、各務原分工場(昭和12年各務原工場と改称)をおいて陣容を強化したのである。

  • なお、各務原市の「航空宇宙博物館にこのサルムソン2A2の復元機と胴体前半分、そしてプロペラが展示されている。なにしろ、それらはいわば、各務原という街が一大航空産業都市となったキッカケとなったものだから。


ああ、疲れた。